周りで見ていた人たちは、映像や音楽が興味深かったと教えてくれたけど、自分にとってはむしろそこに描かれていた強烈なメッセージのようなものが印象に残ったし、やっぱり日本的な映画なのかもしれないという感想をもった。
人々に生きる意味を理解させるために、現実ではあるけれどもゲーム化された戦争があって、そのゲームというビジネスのために生み出された子どもたちがいる。ビジネスのために子どもたちが戦争をして命を奪い合い、それが無限にリピートされる。そんなことが現実に存在するわけないはずだけど、実はもう存在しているののではないか。平和なところに生きていると、ニュースで伝えられる戦争の様子や、人々が命を奪いあっている映像は、結局のところ情報としてインプットされるだけで、身近に感じるのとは情報がもつ印象度が極端に小さい。聞きたくなければ聞かなくてもいいし、はっきり言って自分とは関係ないのかもしれない。そんなニュースを聞きながら、自分のところには起こらなくてよかったと、安心してしまう自分たちがいるような気がする。そんな戦争のニュースを聞いているのと、戦闘モノのゲームをしているのとでは、どちらも現実とは違う世界であって、その中にいる人たちが命を奪い合っているという意味では、情報としてさほど違わないのかもしれない。現実にも自殺したり、命を奪い合ったりしている子どもたちがいるとしたら、それがビジネスとして成立することも不可能ではないのかもしれない。理性的に考えればあり得ない事かもしれないけれど、ドライに考えれば考えるほど、あり得る事のように思えてくる。それほどまでに、人々は戦争に依存しているのだろうか。
絶対的なルールに縛られ、ゲームの中に生きている子どもたちが、自分が存在する意味を見つけるために、ルールに干渉したり、繰り返される運命を変えようとしたりして葛藤する様子は、時間を過ごして、年齢を経ていくという現実において、生きている意味を深く問うメッセージのように受け取れた。ストーリー自体は少し皮肉的な表現だけれど、いつもは考えていないようなことに気がつかされた。
それにしても、日本語のカタカナとは不思議な言葉だ。スカイ・クロラと言ってしまえば、何かカッコ良さげなタイトルだけど、Sky Crowlerと書けば、空ではいはいしている赤ちゃんのような意味を連想させる。キルドレも何か流行りの若者世代のようだけど、Kildrenと書けばなんと恐ろしい造語だと想像できる。カタカナにした瞬間に、元の言語が持っていた意味を失い、新しい言葉として定義され、そのまま日常に使われる言葉になる。使うには便利だけど、少し危険なような気もする。
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